劇的な変化をあじわう ①
ちょっと興奮している。
雨の中、きのうも乗ってきたけど、
きのうは、すばらしいレッスンのおかげで、
ダイナミックな変化をもたらす騎乗感覚を教わった。
どきどきして、いま鼻息が荒いwww
なんかもう、嬉しくて仕方がない。
馬の走りが変わる!
乗らない方にも判るようにお伝えするなら、それは、
がんがんにアクセル踏んでも、なかなか登れないボロい軽に、
突然ターボエンジンを搭載したような感覚だ。
「え!? なにこれ?」
乗っていたわたしがいちばん不思議だった。
馬の走り方が、一気に変化した。
それだけではない。
わたし自身も、身体のあちこちが楽に使えるようになったのだ。
なんというか。
初めて「人馬ともに変わる」感覚を味わった。
小股くんが俊足くんに
きのうの馬は、小股くんだ。
馬体が小さいというのもあるが、なにより身体が硬い。
身体が硬いので、馬の前肢がしっかり前に出ない。
必然的に、ちょこちょこちょこちょこと走ることしかできない。
下手くそには .。゚*・(PД`q )・゚*。.
馬場馬術は、フィギュアのように図形を描くことがねらいの競技だが、
馬の歩度(ストライド)の詰め・伸ばしも採点に大きく関与する。
見た目で、速くなったり遅くなったりする馬の走りは
じつは、この歩度が伸びているか詰まっているかの違いである。
実際のところ、レッスン前半は、
他のぐいぐい走る馬たちの速度に追いつけなくて
わたしはたびたびショートカットをとらざるを得なかった。
長方形の馬場を、正方形に走ることで遅れを取りもどすのだ。
先生方には、自分の馬の遅れなど気にするなと仰る方もおられる。
後ろの詰まりは、後ろが詰めて何とかするのが当たり前。
いちおう部班レッスンでは、それが前提である。
しかし。
トロイ車の後ろを走るのがストレスなのは、
他ならぬ自分が一番よく知っている。
ぐいぐい進んでくれる走りの良い馬に乗っていれば、当然のこと
その馬のぐいぐいポテンシャルを味わいたくなるのが本能だ。
だから申し訳なさいっぱいで、走る位置で差を詰めようとしていた。
それが!
レッスン後半には-----つまりその座りを獲得してからは、
隅角をきちっと攻めて、かっちり隅角を回りながらも
※隅角では、直前に詰めて曲がってから推進させる
違う馬に乗ったかのような爽快感でもって、走ることができた。
2速あたりから、一気にトップギアにチェンジしたような軽快感!
うっそー♬ なにこれ💗
調子こいて、ぐんぐん走ってたら、
「やりすぎです」
諫められてしまった……。
いつものごとく。
だって、これだけ劇的な変貌をとげられたら、
どこまで行けるのだろうかと、
そのポテンシャルを究めたくなるではないか!
本当に、わくわくするほどの走りに変わったのだ。
具体的になにが違うのか
馬は、またがるものである。
でも、初心者のころは椅子に座るように乗っていることがある。
いや、もちろんわたしも、またがってはいた。
さすがにそんな、初心者座りはしていない。
それでも何かが違う。ぜんぜん違う。
なにが違うんだろう。
鐙上げをしながら速歩(はやあし: 二拍子)をしていた。
脚を下に、長く、長く伸ばす。
そのあとで鐙(あぶみ)を履くと、伸ばしていた脚の感覚が、窮屈になる。
この窮屈さのおかげで、
馬場鞍のニーパッド(ひざあて)に自分の腿がぐっと入り込む。
「あ!」
そのとき、先生の説明と、自分の脚の感覚とが一致した。
それと同時に、その感覚でいれば、
自分の太ももを楽に、効果的に使えることに気が付いた。
「わかりますか、違いが」
わたしも感得したことが、先生にも見て取れたのだろう。
馬を見てわかるのか、わたしの身体を見てわかるのか。
どこにその変化が現れるのか不思議だけど、
乗り手がわかっていないときに、こういう聞き方はされない。
嬉しくて、ウンウンウンウンウンと頷いてみせたら
「いつでもそれで乗るように」
はーい ٩(´ᗜ `*)و
実をいえば、それ以前にも、
なんとなく調子のよいときなら、
自分なりにその座りになることもあった。
けれどそれは、こうすればこうなる、という確固としたものではなく、
たまたま偶然に起きた座りにすぎない。
つまり、
- 再現性がない
- 本当に有益な乗り方か保証がない
ないない尽くしだから、「なんとなく」だから、
いつでもできるわけではなかったし、
その座りの効能みたいなものを理解していたわけでもなかった。
もちろん、いまでも微妙過ぎて、
なぜその感覚に至れたら、人馬ともにそんな変化がおきるのか
ぜんぜんわかっていない。
これからじっくり、考察していきたい。
これが愉しみなのだ。
本日のつぶやき : 充実した一日すぎて9時半にはお布団のなか……Zzz