お独りさま・始めてみたら快適じゃない!?

single again……独りで生き抜くよ♪ 毎日もがいて迷い悩みうろたえ生きている。自分と向き合うための記録。

内向するからこそ思索して書く

なんか気分が晴れないなぁ。
せっかく緊急事態宣言も解除されたのに、ウキウキしてこないぞー。
どうしてかな……って掘りだして……ふと、きょうの記事のテーマが決まった。
ラッキー♬



とつぜん、前置きもなく自己開示をすることになるけど^^;------

自分は「内向」型である

といって、他人と接触するのが苦手とか、黙っているのが好きとか、そういうのではない。ご存じのとおり、自己主張もそれなりに強いし、言い切ってしまうところがある。自分の中では、言い切ってみて「ちゃうな……」と思えば、そのときに改めればいいと思っている。だから、方向転換するときは素早い。人によっては変わり身が速いと批判的に見るかもしれない。でも、ひとまずの結論を、そのときどきで出してみなければ先に進めない。だから、あえてその時点での判断をくだそうとする。ここらへんは蛇足。


     


「内向」には二種類ある(とおもっている)

ひとつは、弧でいることを好む人。群れるのが苦手だったり集団行動をとるのを好まなかったり。子供のころから性格診断なんかで「内向」型と判定が出るたびに不思議だった。この観点から分析されると、自分はべつに大勢でわーわーやるのも好きなので、そんなこと苦手に思ったことなんかない、と、ものすごーく違和感をおぼえるのだ。


          



気になって仕方がなかったので、心理学の知識もないのに勝手にずっとこの「内向」について考えていた。これこそまさに、自分の内向性の高さの現れなんだけど。


つまり「内向」にはもう一つ別の意味があるんじゃないか、ということだ。
自分を見つめる中でひっぱりだした考えだけど、意識が自分に向きやすいかどうかだ。
どんな外的要因にかかわろうとも、最終的な興味や関心が、つねに自分自身に戻ってきてしまう。そんな関心をもつこと。関心の方向が、外に向くのではなく内に向いている。
そういう「内向性の強さ」もあるのではないだろうか。


たとえば昨日の市議のこと。
  
うんざりするほどの4乗ネタだったが、中でもいちばんなにが不愉快だったのか。
それは、オヤジの下手な言い訳だった。
「コロナ陽性でありながら出歩いて感染源となった」ことより、
「誤魔化せば誤魔化せるとでもいいたげな浅はかさ」が、わたしには一番不愉快だった。


ではなぜ、わたしはそこに憤るのだろう?
なぜ、こんなどーでもいいオヤジの言動に、自分は苛立ってしまうのだろう。
そんな理由を、
どーでもいいオヤジへの関心からではなく、
なぜ自分は? という思いから自問し続けてしまうのだ。
まわりまわって、ここまで戻ってきてしまう。


こういうとき、自分と真反対の人を思い浮かべてみると、判りやすい。
自分とは、対照的なタイプ・真反対のタイプを、ご紹介してみよう。


たとえば高校のとある友だちは、典型的な「外向」型だった。大学に進学してしばらくぶりに再開したとき、彼女はひたすら「だれがどこに進学したのか」を知りたがった。
わたしたちは久しぶりに会ったのに、お互いの話をするわけではなく、クラスも違うような顔も名前もろくに知らない第三者のことばかりを話題に、わたしを質問攻めにしてくるのだ。なかには、わたしが全く知らない相手のことまで聞いてきた。


知らんわ、そんなん。知ってるわけないやん!


内向型のわたしからすれば、まったく意味も関心も見いだせない情報を、これほどまでに嬉々として収集したがる人もいるんだ……?! それを知ってどうするん? 
なかば呆れたのだ。 
このときの鮮烈な驚きが、彼女と自分との違いについて、あるいは他人と自分とについて、ことあるごとに考える強いきっかけになった。



思索が遊びになる

こういうことを振り返ったり分類したりしていると、あっという間に時がたつ。
(これだって書き終えたら2時間半かかっているし、午後から読み直してさらに手を入れた)。よって、間違っても「ヒマだー!」と退屈することがない。また、考えているプロセスを記録しないでいると、どんどん漏れ落ちて堂々巡りしてしまうから、これを助ける意味で文字にする。文字にする過程では推敲をともなうから、とうぜんのこと矛盾があったり行き詰まったり。自分のモヤモヤをいいあぐねるため、言葉が不適切なことに気が付いたりもする。そうこうするうち、思索がふえてゆく。思索すればするほど、モヤモヤはより的確な言葉に置きかわって整理され、心のなかがクリアになる。曇天が快晴になるような喜び。気持ちいい。思索がこのうえない楽しみになってゆく。


いぜんに、なぜブログを書くのか、かるく触れたことがある。そのときは、いずれまた書きたいテーマとして先送りするつもりで、なぜ読みに行くのかを扱った。


  
※このときは書き進めながら、女性と貧困のからみが伏線になってしまったから話をまとめきれなくて不完全燃焼におちいった。たびたび手直ししているけど、まだまだ書き押す余地がある。難しい。



自分がブログを書く理由

ここまで明確になってきたから、書く理由は容易に特定できる。メインは2つ。

  1. 遊びだ。思索する愉しさを味わえる。
  2. もうひとつは思索の記録。喪失しないよう記録する。
  3. あえて公表するのは、強制作用と客観作用を受けるため

書く行為はおもしろい。書くことを通じて、自覚していなかった深層心理なのか潜在意識なのか、じぶんのなかの小さな何かを引っ張り出して発見することがある。たまに、思いがけない結論に至ることもあるし、こんなことを考えていたのかぁ! と気づかされることもある。そんなモヤモヤを的確な言葉にしえたときの心地よさは、へたなゲームよりはるかに充実している。


書いたものを発表するのは、ひとつは書くことを強いて、定期的に向き合うように仕向けるためだ。もう一つは、内容の精度をじぶんなりに高めるためでもある。公表しない日記なら、文章としての読みやすさも全体のまとまりも考えず、どう書き散らそうと気にしないで終わる。自分に甘いので、制約がないとダラけてしまう。


もっと優れた記事を書くことができれば広告代金を稼ぐこともできる。だから、お小遣い稼ぎという理由もなりたつ。でも雑記ブログでは検索でトップ表示されることはない。やはり理由として挙げるほどのことはない。そもそも自力で広告を貼っていないしなぁ。




ところで。どうしてウキウキしないのかの思索を忘れていた。
それなりに心当たりはあるんだけど。お休みの今日は、のんびりそっちの自己観察をしてみよう。




本日のつぶやき : 自分のホームベースは書くことにある



蛇足です。
ぜんぜん関係ない話だけど-----
「素早い」って動作が速いってことなのに、なぜ「素速い」って書かないのだろう。

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