観ること・感じることを諦めない
オンライン業務が始まっている。
一体どうなるだろうと不安もあったけど、普段の対面とはまた違う側面が見えてきて、いま、ワクワクするような面白さを感じている。
いまの仕事は始めて10年目だ。
慣れ過ぎてきて、ややもすると惰性におちいりそうな時期だ。その見直しが図れるという意味で、今回のコロナ騒動は、あんがい自分には良い契機になっている。
いい緊張感があるのだ。
その緊張感ゆえに準備も入念になる。周囲への気配り・念押しも増えている。たとえば、個別もしくは全体に何かを伝えたとしても、口頭だけでは実に心許ない。
「あの話はどうでしたか」「これどうするんでしたか」
こういう質問が必ず返ってくる。一か月の猶予があろうと質問や確認がとどくのは直前だ。こちらも予見しているからこそ、口頭で伝えた内容はかならず文字に書き起こし、全体に周知するよう配信しなおしている。ほんとうに周知徹底するのは難しい。
※書き起こしておいても、一度見たらそれっきりで、見直そうともしない人も多い。しかし、「そんなもん」なのだ。都合よく期待してはいけない。「そんなもんだ」くらいで構えておくしかない。
観ること・感じることの重要さ
わたしの仕事は、人一倍、対人関係を重視する。
「そんなもの、どんな仕事でも往々にしてそうだ!」といわれるだろう。
たしかに。でも「相手を観て、応じた導きを必要とする」典型的な職種なのだ。
相手の反応が薄い
表情がなくて読み取れない
呼びかけても返答がない
そもそも意欲はあるのか
どうしたいと思っている?
限られた時間の中でそうしたことを手探りするには、どうしても糸口が欲しくなる。
そんなふうに、わたしからすれば全く「暖簾に腕押し」だった相手が、少しずつ変わってくる?のを見ることがある。気づけたらラッキーな微細な変化。
ひとりはKさんである。
そのKさんが、いきなりハッとするような変化を、非日常の場で見せることがある。都度、わたしからも「注目しているよ!」のサインを返すのだが、日常に戻ると、あいかわらず「読みづらい」状態にもどってしまう。
二年ほど過ぎたころだったか。しばらくして、小さなキャッチボールが始まった。Kさんは、周囲よりも抜きんでて成長が速い。非常にクールに見える。見せないだけなのか。ためらいも感情も出さない。だが、その裏には驚くほどの取り組みがあった。まさに異質。わたしとは対極的な性質をもっている。凡庸な自分に、何ができるだろう。
もう一人、Rさんがいる。
地味で、控えめで、多くを語らない。多くを求めない。素直だ。でも粘りは薄い。すぐに諦めて放棄する。期待しないからか。自尊心が低いからか。構われたくないのか。放っておいて欲しいのか。それとも、待っているだけなのか。待ってさえいないのか。
答えはまだ出さない
分からないことだらけの中で、ひとつ心がけていることがある。
モノの見方として
- 思いつくかぎりの問いかけをすること
- 思いつくかぎりの選択肢を拾い出すこと
- 確実に違う要素だけを消していくこと
結論を出すより、核心に近づくこと。集束していくことを心がけている。
ずっと観つめる
ずっと問いかける
ずっと投げかける
そこから、新しい何かが、違った何かが、また観えてくると嬉しい。
本日のつぶやき : いつでも受け止める気持ちでいるよ